■「酒とつまみと営業の日々」第16話〜第20話 ■

第16話 取材受けつつベ〜ロベロ

 どうにもこうにも、この連載における時間の進行はあまりに遅い。それは小誌ホームページの『独占酒記』という日記風雑文の更新があまりにも遅いことに酷似しているが、前者の場合はまだまだ書いておきたいことがあるからであって、後者の場合のように、単に不精だからというのとは少し違う。そんな言い訳はどうでもいいのだが、それはさておき今回もまた、『酒とつまみ』3号が発売される以前のお話です。すんません。
 地方取材から戻るとすぐまた地方、さらに戻ると夕方が打ち合わせで酒を飲み、朝は当然二日酔いで、昼の少しばかりの時間に原稿仕事なんぞをしていた2003年7月、なんと、雑誌の取材を受けることになった。『サイゾー』の編集スタッフから連絡があり、毎回、どこかの雑誌の編集長にインタビューする「マガ人」というコーナーがあり、そこにお前さん、出ませんかというお誘いなのである。私はビビリであるから、即座に断ろうと思うのだが、そこはパブリシティである。雑誌でもナンでも出て我らが『酒とつまみ』のPRに少しでも貢献すべし。それも営業である。というのがスタッフの統一見解なのであった。
 そして、やってきました取材の人。普段は取材する側であるからその現場がどのようなものかは知っているものの、取材されるのはどうにも居心地が悪い。結局、その女性担当者の方が来るまでに、ああ! 飲んじまったのである。飲んでしまえばコッチのもん、というか実はアッチのもんなんでしょう、いろいろと下らぬことべらべら喋って、その間も缶ビールグビグビやっていたのでだんだん調子が出てくる。とうとう、取材はもういい? じゃ、これからホッピー飲みに行こうよと、その女性を誘い、カメラのSさんと連れ立って浅草橋の「加賀屋」へ繰りだし、編集Wクンも途中から参加してくれて、グビグビとホッピーを飲む。パブリシティもPRもあったもんじゃないのである。
 おまけにその女性、ノリが良いというか我らのようなオヤジを上機嫌にさせておくフトコロの深さを若いに似合わず持ち合わせていて、ホッピーの中身のお代わりが、ズビズビと進んでしまう。いい加減酔ってきて、
「これに懲りずね、またね、取材してくらはい! 御誌に原稿も書かせてくらはいよ!」
 なんて言ってたら、その女性、カバンからカメラを取り出して我が酔態を撮影しにかかるではないか。おまけに、女性の横に座っていたのがSさんだ。写真ならお父さんに任せなさいとかいいながら、私の正面で、バンバンとシャッターを切る。うーん、飲んでいるとこを撮られるなんてタマランほどイヤなのだが、酔いも深くていい加減な心持になっているから、だんだんお構いなしになる。
 そうしてできあがったのが、『サイゾー』03年9月号に掲載された写真。煮込みのドンブリを両手にささげ持ち、くわえタバコでニタニタ笑いする不気味な男が嬉しそうに飲んでいて、それが、私なのである。肝っ玉の小さい者にとっては、PRも容易ではないと思い知った次第。『サイゾー』様、取材なのに飲んじまって、すんません。

(「書評のメルマガ」2004.9.14発行 vol.179 [秋の本イベント 号] 掲載)

 

第17話 涙、なぁ〜みだの、国分寺

 2003年8月26日、待望の『酒とつまみ』第3号が印刷所から納品された。80ページに増ページして、心なしか厚さも増したせいか梱包のひとつひとつにずっしりとした重量感がある。しかも4000部である。暑い日のことで、これを納品担当者と一緒に我らが編集部へと運び込むのがひと苦労だ。編集部は雑居ビルの4階にあるが、エレベーターはない。いつもド二日酔いの私には梱包4つを手に階段をなん往復もする体力があるわけない。最初の1回で息が上がり、汗が噴き出す。ああこれはダメだなと思っていると、ちょうどそこへ仕事の電話が入った。ちょっと急ぎの用(本当である)で、なかなか切ることができず、ようやく電話を終えて振り向いた私を待っていたのは、編集Wクン、デザインIさん、カメラSさんの、汗にまみれた顔に光る憎悪の眼差しであった。
 私はその午後、納品された雑誌に読者カードやスリップを挟む作業に没頭した。しかし、いくら懸命にカード挟み込み作業に没頭しても、Wクンらの冷たい視線に温もりが蘇ることはなかった。
 注文は順調だった。創刊号以来お付き合いをいただいてきた書店さんでは、この号あたりから、最初の注文が40冊、50冊に及ぶところも出てきた。あゆみBOOKS八王子店のM店長は、この雑誌のカラーを踏まえて、立川、三鷹、吉祥寺といった中央線沿線の書店の店長さんを教えてくれ、この好意は後日、注文に結びつくことになる。30日には小誌連載陣の松崎菊也さんとすわ親治さんが出演する『他言無用LIVE』(今月22日、23日にも公演があるよ!)の会場で、一気に77冊を販売した。
 国分寺の『いっぱいやっぺ』でも感動的な出来事があった。中央線ホッピーマラソンで立ち寄らせていただいたこの店に掲載誌を届けつつ1杯やっていたときのこと。カウンターの、一席あけた隣に座っていた寡黙な旦那さんが、小誌を間に挟んで店主と談笑している私にこう言った。
「これを売って歩いているのか」
 私が「はい」と答えると、今度は店主に、
「お、10冊買ってやれ。勘定は俺につけろ」
 丁重に礼を言う私に、店主はすぐさま「はいよ」と言って4000円を差し出した。私のカバンには予備は2冊しか入っていなかったが、本は、暇なときに持ってきてくれればいいからと、先に金を渡してくれた。こういう人たちがいるのである。縁も深くない他人への好意をさらりと示し、あとは素知らぬ顔で焼酎を飲む。焼き鳥を焼く。
 勘定をすませ、カウンターの旦那さんと店主に何度も礼を言って店を出る私に、
「またおいでよ、オレ、いつもいるから」
 常連と思われる、また別の客が声をかけてくれた。

(「書評のメルマガ」2004.10.7発行 vol.183 [古本アミューズメント 号] 掲載)

 

第18話 は〜るばる来たぜ川越へ〜

 勢いだけで4000部を刷った『酒とつまみ』3号だが、8月末からの1ヶ月で2089冊を委託用に出し、その他、春に開設したホームページ経由での個人注文があった。
 すごかったのが神戸の海文堂書店。初回の注文がなんと100冊。強烈に肩入れしてくださっているFさんからのファックスにはひと言「売らせていただきます」とのメッセージが添えられていた。西荻窪の信愛書店では初回30冊の後すぐに40冊の、中野のタコシェでも初回の30冊から3週間の間にさらに30の追加がそれぞれあった。書店さんばかりではない。銀座コリドー街の「ロックフィッシュ」というバーも強烈だった。初回20冊の後に30冊の追加が3回。合計110冊。すげえ。
 余談になるがこのバーは角ビンのハイボールで評判だ。ダブルサイズのソーダ割りと考えてもらえばいいが、これがうまい。1杯840円と安い。この店では3000円が酩酊ラインだと聞いたがそれも頷ける。頷けるのだが、我ら酒とつまみスタッフは、この店で4人で飲んで3万2000円払ったことがある。バカだ。
 あゆみBOOKS八王子店のM店長から中央線沿線の書店を紹介されたことは前回に書いたが、そのひとつが三鷹駅前の啓文堂書店。書店さんは横のつながりがあるようで、意外なほど気軽に教えてくれる。そんなわけで、いきなり店長を訪ねてみた。最初、なんだろうねえコレハというような顔つきをされていた店長さん、酒飲みすぎてウンコ漏らしたとかゲロ吐いたとか、そんな話ばっかり集めた本です、と説明するやニヤリとお笑いになり、30冊即決してくれた。こうなると私は調子に乗るというか悪乗りする。府中、渋谷の店舗を紹介してもらい、その日のうちに足を運んで府中店でも30冊、渋谷店20冊置いていただけることになった。感動の9月、である。
 乗りはまだ続いた。旭屋の渋谷店、芳林堂では高田馬場店と池袋店を次々に訪れ、取り扱い書店になってもらった。そして9月下旬。月の半ばに急性の腸炎でボロボロになった後だったが、いよいよ埼玉への営業に乗り出した。すでにお取引をいだたいている大宮のジュンク堂さんにはご挨拶程度にし、浦和、川越と足をのばした。浦和では惨敗を喫し、川越では1勝1敗。やはり旭屋さんで、「30冊、ひとまず置いてみようか」となったのである。
 100冊は入ろうかという巨大な袋に『酒つま』を詰め、残暑の中営業に歩くのは、暑い。たしかに暑い。しかし、私はこれが大好きでもある。後の酒がうまいからだ。腸炎で緩みまくった腹を危ぶみながらの川越遠征だったが、旭屋川越店に30冊を下ろした後の袋は軽くなり、気分も上々、今日の仕事はこれで終わり、と勝手に決めた。
 駅前の中華屋で、生ビールを頼む。ザーサイと餃子を頼む。店員が何を間違えたか3個入りの餃子の皿を持って来たので、生ビールのお代わりと同時に餃子も追加。ザーサイはなくなり、そろそろ麺にするかと、タンタン麺を頼むと、待っている間がもたず、さらに生ビールをお代わりした。ああ、うまいよ。うまい。おれはトコトン営業向きにできているなと、再び思った次第。

(「書評のメルマガ」2004.11.8発行 vol.187 [男だらけ 号] 掲載)

 

第19話 創刊1年!! 名古屋で感涙に咽ぶ

 ふだんから、フラフラといろいろな場所へ出かけては、ちょっといい店があると中を覗き、時間さえ空いていれば軽く1、2杯飲むようなことをしていた編集部一同。『酒とつまみ』3号をなんとしても売らなければならず、あちこち歩き回るうちに、その行動範囲もやや広くなってきて、思いもかけない出会いにも恵まれるようになった。
 ひとつは、古書店である。早稲田にある「古書現世」さんが、なんと穴八幡での古本市で小誌を売ってやろうじゃないかと申し出てくださった。こちらの担当は編集Wクン。すかさずお店にどさりと『酒つま』を届け、一同で趣いたのが10月5日。この日は『純米酒フェスティバル』なるイベントに、小生、Wクン、カメラのSさんの3人とも参加していた。そもそも、そのイベントの存在を教えてくれたのが、第3号から『のんだくれ紀行』の連載を始めた山内女史だ。
 この4人に、銀座のR、Lという2軒のバーの、バーテンダーも参加して都合6人。小生は途中「中ヌケ」をしたのだが、残った強力5人組は、日本酒フェスティバルで飲みまくり、各々フェスタ土産の日本酒を手に、酔った勢いのままで穴八幡の境内へ駆けつけるや、古本市のまさにその会場の、緋毛氈を敷いた床机をテーブルに見立てて、なんと酒盛りを繰り広げたのである。
 驚いたのが当の古書現世さん。ところがこの店の向井さんなる人物、乱入した『酒つま隊』を叱り飛ばすどころか、逆に乾き物の差し入れをしてくれたのである。悠揚迫らぬその態度、たしかに大人のものであったと、私は後に、聞いた。その日、小誌がどれくらい売れたかについては、聞いていない。
 創刊からほぼ1年が経っていた。この頃になると、私もようやくのことで、緊張せずに営業ができるようになってきた。初めて入る書店さんで、あ、あのー、ミニコミなんですけど、とヘンにヘリクダることなく、『酒とつまみ』という新しい雑誌のご案内に参りました、とスムーズに言えるようになったのだ。 
 これだけのことが普通に言えればなんとかなるもので、店の人は、ああ『酒とつまみ』っていう雑誌があるのだなという顔つきをして、雑誌担当者や店長さんを呼び出してくれる。たしかに『酒とつまみ』はあるのだ。ここに。しかしそれは広い日本中で考えれば、あってないようなものだ。100人に聞いて100人が知らなくて当たり前のミニコミ雑誌なのだから、チャラっと喋って店長に会えたりすることは、奇跡的であったといえる。
 それが嬉しかった。フリーの雑誌記者として取材に出向くカバンの中に、『酒つま』の見本誌といくばくかの資料を詰めて歩いた。日本橋の取材の後で、丸善へ。そのまま勢いで八重洲ブックセンターへ。2店立て続けに、取り扱い開始の許可をいただいた夕べがある。
 名古屋への出張の折り、安宿に一泊して翌日の半日を営業にあて、いよいよ帰京しなければならないというそのときになって20冊の委託注文をいただけたこともある。三省堂名古屋テルミナ店だった。まだお若い担当者は小誌を見るなり、ああ、これ、いけますよ、と言ってくれたのだった。
 それが、無性に嬉しかった。卸値は1冊260円ばかり。20冊全部売れても6000円に満たない売上だ。名古屋までの片道交通費にも足りない。しかし、これは、私にとって、酒とつまみにとって、たしかな1歩だという気がした。ウチにとっては税抜き定価の7掛けの商売である。しかしそれは、扱ってくれる書店にとってわずか3掛けの取引であることを意味する。税込み400円の3掛けでざっくり計算しても1冊120円。20冊完売で2400円。そのためにどの棚で売るかを、彼らは考えてくれるのである。
 どうか、1冊でも多く売れますように。店を後にするときの私は、祈るような気分だった。そんな気持ちになったのは、40年の人生で初めてのことである。

(「書評のメルマガ」2004.12.8発行 vol.191 [ いいオトナの遊び 号] 掲載)

 

第20話 躊躇いの年末、エイヤの5000部

 2003年11月。『酒とつまみ』第3号はひとまず順調に見えた。取引書店は着々と増えていたし、各店舗での部数も、概ね増加傾向にあった。スタッフ一同は、第4号の年内発行へ向けて最後の追い込みに入った。いやいや、このときばかりの追い込みだ。最初の追い込みも、中押しも、何もせずに、最後になって一気に作ろうとするからどうにも慌しい。依頼した原稿が集まるくらいになってやっとこちらの取材が終わる具合で、そのときになって初めて、本当の入稿日が逆算されるのである。執筆陣の皆様には、たいへん申し訳ございません!
 11月末。みうらじゅんさんに、第4号の「酔客万来」に登場していただくことが決まり、座談会も抱腹絶倒のうちに終わった。みうらさんの人気もある。また、楽しい1冊にできるだろうと確信した。しかし、悩みもあったのだ。やはり、部数である。4000部印刷した3号は、委託・直販合わせてもまだ、3000部に届かない状況だった。このまま少しずつ地道に進めていって、ようやく3000部。というのが妥当な見方だった。
 創刊号、第2号ともにほぼ売り尽くした感があったが、部数はいずれも2000部である。3号については、もっと営業に割ける時間とパワーがあれば、ひとまず店頭において貰うだけのことでも進展が見込めるのに、そんな余裕はどこにもなかった。仕事場に在庫を抱えながら、しかも、委託した約2500部の完売を願うだけの日々。12月に入ると、心配していた返品も来るようになる。都内の書店で20冊の追加があって喜んでいると、そこへ宅配便のお兄さんが、地方の書店からの15冊の返品を運んできてくれ、一気に意気消沈するという日があった。返品は痛い。納品時の送料はしかたがない。しかし返品時の送料負担はこたえる。わずか数冊の返品で800円もの送料がかかることがあるのだ。着払いの伝票を見ながら、その書店に請求できる金額を計算すると、がっくりきた。
 仮に、10冊納品して8冊を売ってもらったとしよう。請求できるのは、税抜き定価の70%+消費税だから、ざっと計算して2200円ほど。しかしこの2冊の返品に、数百円の送料がかかる。そこからさらに、ぎりぎりの製造原価を差し引くと、利益が残るかどうかの瀬戸際、売れた部数や返品の運搬距離によっては、赤字になったのである。こんなときは、いつも思った。8人の読者が増えたのだ。次の号も買ってくれ、ほかの人に勧めてくれるかもしれない8人の読者が増えたのだ、と。
 そしていよいよ年末、第4号の部数を決めるべき時となった。3000部にして完売を目指すか、4000部のままでやせ我慢をするか――。
 そこへ1本の電話が入る。神田三省堂の雑誌担当者からだった。
「4号はいつですか。年明け? そうですか。では3号の追加20冊を急いでお願いします。それから4号ですが、100冊予約します」
 私は、大日本印刷のMさんにメールを送った。
――第4号、5000部でお願いします。

(「書評のメルマガ」2005.1.10発行 vol.195 [ 冬眠したい 号] 掲載)

 



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